ふやすのは、わたし資産。UI銀⾏のオウンドメディア

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日本最古の銀行を設立! 渋沢栄一の「わたし資産」とは

日本最古の銀行を設立! 渋沢栄一の「わたし資産」とは

TOPICS

  1. 日本最古の民間銀行を設立、500社以上の企業を創り育てる
  2. 旺盛な知識欲を武器に海外経験で見聞を広げ、日本の近代化に貢献
  3. 「道理」を重んじ、的確に情報を集めて合理的に判断
  4. 生涯を通じて常に目標を持ち続け、実現のための努力を怠らない


本企画『わたし資産、徹底解剖!』では、歴史上の人物や架空のキャラクターなど、さまざまな人物のエピソードを深掘りしながら、「わたし資産」を増やすためのアイデアやヒントを考察します。

※「わたし資産」とは、お金や家などの有形資産だけでなく、思い出や経験、人とのつながりといった無形資産も含んだ、私たち一人ひとりの固有資産を意味する、UI銀行オリジナルの言葉です。

今回取り上げるのは渋沢栄一。2021年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公として取り上げられ、2024年7月から発行される新1万円札の肖像画にも選出されるなど、近年あらためて注目を集めています。「近代日本経済の父」とも称される渋沢栄一の人生をひもときながら、その「わたし資産」に迫ります。



日本最古の銀行の設立に携わり、500社もの企業の創設と育成に尽力
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まずは渋沢栄一の生涯を簡単におさらいしましょう。

渋沢は1840年(天保11)に、武蔵国(現・埼玉県深谷市)の裕福な農家の家に生まれました。彼は幼少期から父に学問の手ほどきを受け、7歳ごろから従兄のもとで『論語』などを学び始めます。14歳ごろから家業を手伝うようになり、藍玉(あいだま・藍の葉から作られる染料)の製造・販売に必要な藍葉の買い付けに、1人で出向くこともありました。まだ少年の渋沢が正確な目利きをするので、買い付け先の人たちは大変驚いたそうです。

1863年(文久3)には、天皇をうやまい、外国人を追い出そうとする「「尊王攘夷(そんのうじょうい)思想」の影響を受け、高崎城を乗っ取り、横浜の外国人居留地を襲撃する計画を立てましたが未遂に終わります。その後、京都へ向かい、一橋慶喜(のちの徳川慶喜)の家臣に。1867年(慶應3)には、幕臣としてパリ万博に派遣され、ヨーロッパ各国を訪問。現地の進んだ技術や産業に感銘を受けます。

1868年(明治元)に帰国後は、民部省(現・財務省)に勤務し、貨幣や銀行制度の立案を手がけます。ほかにも、鉄道の敷設や、郵便制度の改革、太陽暦の採用など、さまざまな制度の導入を手がけ、日本の近代化に大きく貢献しました。

退官後は、日本最古の銀行といわれる第一国立銀行(現・みずほ銀行)の設立にも携わりました。約500社もの企業の創設と育成に尽力する傍ら、社会事業にも注力。1931年(昭和6)に91歳で亡くなるまで、数多くの教育・福祉・医療機関を支援し、民間外交にも尽力し続けました。

その功績を讃え、2024年7月からは新1万円札の肖像画が渋沢になります。実は渋沢がお札の肖像画の候補に選ばれるのは2度目で、1963年の千円札刷新の際にも伊藤博文と共に候補に挙がっていたそうです。しかし、当時はヒゲがあると偽造しにくいという理由から、渋沢ではなく伊藤博文が選ばれたとか。ちなみにBankを銀行と和訳したのも渋沢であるといわれています。


 

「日本の資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一の「わたし資産」とは

渋沢栄一の「わたし資産」①
旺盛な知識欲と欧州留学経験

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渋沢は子どもの頃から読書が大好きで、畑仕事の合間や外を歩いているときも本を読んでいました。外を歩きながら本を読んでいて、うっかり溝に落ちてしまったというエピソードもあるほど、知識欲が旺盛な少年だったそうです。


江戸幕府からパリ万覧に派遣された際は、パリを中心に約2年間欧州に滞在。社会・経済の仕組みから、鉄道や電灯、水道などのインフラまで、海外の近代的な社会制度・基盤を熱心に研究しました。


また、渋沢はパリで、軍人と銀行家が対等にやり取りする様子から、「官」と「民」の関係が日本とは大きく異なることに気づきます。ここから、幕府や官吏をうやまい、民間を見下す「官尊民卑」の風潮を変え、民間実業家の地位を向上させることが日本の近代化に不可欠だと痛感します。このように彼は欧州で技術だけでなく、先進的な考え方も学びました。


渋沢が日本の近代化を急速に進めることができたのは、こうした幼少期からの学びと、貪欲な知識欲をもとに欧州で得た最先端の情報のおかげだといえるでしょう。


渋沢栄一の「わたし資産」②
合理的思考と情報リテラシー

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渋沢が少年時代、姉の病気を治すため、親戚が祈祷師を家に連れてきました。姉の病は「無縁仏のたたり」だという祈祷師の言動に疑問を持った渋沢は、無縁仏が出てきた年代などを祈祷師に質問し、それがインチキだと見破ります。

従兄弟である尾高惇忠(おだか あつただ)たちと攘夷計画を立てた際には、尾高惇忠の弟・長七郎から計画の中止を説得されます。長七郎は、京都では尊王攘夷派が反幕府勢力とされていることなど最新の情勢を伝えたのです。これをもとに渋沢らは決行か中止か、三昼夜にわたって議論します。そして実際に京都の様子を見てきた長七郎の意見が道理にかなっていると判断し、計画中止を決定しました。

渋沢は情報収集に優れているだけでなく、このように情報を精査し、真偽や本質を見極める情報リテラシーも持っていました。渋沢の冷静で合理的な判断力は、後の組織運営にも活かされています。


渋沢栄一の「わたし資産」③
現状に満足せず、公益を追求し続ける姿勢

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76歳で実業界を引退後、渋沢は福祉や医療などの公益事業に尽力します。「余の主義は、利己主義ではなく公益主義」と語る渋沢は、経済発展の陰で格差が広がる中、困窮者への支援も忘れませんでした。

 

渋沢は、病人や孤児など困窮した人々を支える福祉施設、東京養育院の院長を50年以上務めます。1929年(昭和4​​に困窮者を救うための法律「救護法」の施行が延期された際は、高熱で寝込んでいたにも関わらず「20万人もの人たちが助かるなら私にもしものことがあってもかまわない」と、関係大臣に実施を直訴しました。また、1900年代にアメリカで日本人移民の排斥問題が起こった際には、民間外交を通して解決に努め、ノーベル平和賞候補に2回も選ばれました。

 

渋沢は「無欲は怠慢の基である」「すべて世の中の事は、もうこれで満足だという時は、すなわち衰える時である」と述べ、常に現状に満足せず、日本をより良くしたいという気持ちを持ち続けました。この姿勢こそが、亡くなる直前まで精力的に活動し続けた原動力といえるでしょう。


 

「わたし資産」を増やす鍵は“道理”にアリ?

渋沢は知的好奇心が旺盛で、幼少期から新しい知識を積極的に吸収しました。そうして得られた知識や経験こそが彼の「わたし資産」であり、江戸から明治へと移り変わる激動の時代を生き抜き、日本の急速な近代化に貢献できた要因といえるでしょう。

 

また、社会の仕組みが大きく変わる中で、渋沢は常に「道理にかなっているか」ということを重視しました。彼の考える「道理」とは、世のため人のためになるかということ。渋沢の有名な著書『論語と算盤』でも、ビジネスにおいて大切なのは、商売と道理を両立させることだと説いています。この考え方は、パーパス経営やESGなど近年のビジネスモデルにも通じるものです。

 

現代ではインターネットを通じて、多くの知識を簡単に得られるようになりましたが、その一方で真偽不明の情報も溢れています。情報量の増加や変化の加速により、判断に迷うことも多くなったのではないでしょうか。新しい情報に触れたときは、一度渋沢のように「道理」という観点で検証してみると、より有意義な情報を選択しやすくなり、さらなる「わたし資産」の拡大にもつながるかもしれません。


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※北里柴三郎の記事はこちら

 

※津田梅子の記事はこちら

企業プロフィール

株式会社UI銀行

https://www.uibank.co.jp/

UI銀行は、連携パートナーやきらぼし銀行を始めとしたきらぼしグループ各社と協働し、対面・非対面それぞれの良さを活かした多様なサービスを通じ、お客さまのお金だけでなく、健康や知識、人とのつながりといった見えない資産=「わたし資産」を増やすお手伝いをしていきます。

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